2017年10月18日水曜日

日本国憲法の誕生 ⑬民政局の活動<2> 戦争放棄

総選挙たけなわである。
一昨日の赤旗に次のような記事が載った。
赤旗2017.10.15付
あの前川喜平が次のように述べている。

憲法9条は人類の知恵の積み重ねのなかで生まれたもので、人類史のなかで燦然と輝いています。人類の憲法と言える9条をいかに大事にしていくかが問われています。

護憲派のリベラルな人がこのように言うのはちっとも驚かないのだが、元文部官僚トップの前川喜平がこのように述べるとちょっとした感動を覚えてしまう。

ケーディスのひとり舞台?

民政局次長 ケーディス
今回はこの憲法9条、つまり戦争放棄の条項が民政局のなかでどのようにしてつくられたのかをみるのだが、結論を先に言うと、ケーディスがひとりでつくった。

ケーディスは運営委員会のひとりであり、草案づくりの実務責任者だった。

民政局の組織図(⑪に記載)を見てわかるように、戦争放棄を扱う小委員会はない。
ケーディスは鈴木昭典の取材で次のように言っている。

「戦争放棄の条文は、さまざまな議論が起こることが予想されましたので、私自身が担当することにしました。
おそらく私がやらなかったら、議論が百出してまとまらなかったと思います」

とはいうものの、憲法9条の原型はすでにマッカーサーノート(⑪に全文)に書かれている。
憲法草案を作成する上で、最初にマッカーサーから提示されたマッカーサーノートの第2項は次のようなものだ。

マッカーサーノート第2項
国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。
日本が陸海空軍をもつ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。

これをケーディスは次のように修正した。

ケーディスの<戦争放棄>案
国権の発動たる戦争は、廃止する。いかなる国であれ他の国との間の紛争解決の手段としては、武力による威嚇または武力の行使は、永久に放棄する。
陸軍、海軍、空軍、その他の戦力を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が国に与えられることもない。

ケーディスは鈴木昭典に次のように語っている。

「重要な変更は、草案を数カ所カットしたことです。
それは私がやりました。
自分でやったのを覚えています。

まず、<事故の安全を保持するための手段としての戦争をも>という部分をカットしました。
さらに、<日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる>の部分もカットしました。
あまりにも理想的で、現実的ではないと思ったからです。
そして、<武力による威嚇、または武力の行使は>という文言を、前段に挿入したのを覚えています」

「自衛権の放棄を謳った部分をカットした理由は、それが現実離れしていると思ったからです。
どんな国でも、自分を守る権利があるからです。
だって、個人にも人権があるでしょう?
それと同じです。じぶんの国が攻撃されているのに防衛できないというのは、非現実的だと考えたからですよ。

そして、少なくとも、これでひとつ抜け道を作っておくことが出来る、可能性を残すことができると思ったわけです。
(草案の中には)はっきりと<攻撃を撃退することはできない>とは謳われていないわけですからね。

この条項について、皆で議論していたら、一週間かけても結論は出ないだろうと思ったのです。
それで、これは自分一人でやってしまおうと心に決めました」

ケーディスはしきりに自分ひとりでマッカーサーノートを書き直したと言っているが、これには異論もある。
ケーディスはもっと踏み込んだ修正をしていたが、最終的にホイットニー、マッカーサーの意向に添ったものになったという見方だ。
今となっては本当のことはわからないだろう(ホイットニーとはいくつかの議論をしている)。

ケーディスがあまりに理想的という理由でカットした、マッカーサーノートの<日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる>の部分は、憲法前文に反映している。

GHQ案ができておよそ9カ月後の1946年11月3日、日本国憲法が公布された。
その間、ケーディスの書いた戦争放棄の条項は国会でもまれて憲法9条として、次のように成文化された。

日本国憲法 第2章「戦争の放棄」第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

GHQ案との相違点については、後の投稿で触れる。

つまり、「民政局の活動」としての本稿は以上なのだが、冒頭の前田喜平の言う「憲法9条は人類の智恵の積み重ねのなかで生まれた」を少し詳しくみてみよう。

人類の知恵の積み重ね

「智恵の積み重ね」は結局マッカーサーノート第2項がそうなのだといえる。
マッカーサーノートは3つの原則だが、この第2項のみ異彩を放っているのもそういうことだろう。

鈴木昭典はその著書(例の「密室の九日間」)の中で、戦争放棄のルーツとして3つあげている。
鈴木の解説も引用させてもらいながら以下まとめる。

戦争放棄のルーツ1  1928年 パリ不戦条約 

第1条 条約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於イテ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス。

第1次世界大戦で近代戦争の悲劇を体験したヨーロッパの人たちの、心からの誓いが述べられている。

戦争放棄のルーツ2  1935年 フィリピン憲法 

第2条3節 フィリピンは国策遂行の手段としての戦争を放棄し、一般に確立された国際法の諸原則を国家の法の一部として採用する。

マッカーサー元帥の父親は、フィリピン駐屯軍の総司令官をつとめ、マッカーサー自身も若い時代から都合4回フィリピンで過ごしたことがあり、フィリピン独立の直前にはフィリピンの軍事顧問に就任している。
フィリピン憲法に書かれた「戦争放棄」の文字が、マッカーサーの脳裏に深く刻まれていたことは疑いもない。

戦争放棄のルーツ3  1945年6月 国連憲章 

第2条の4 すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇または武力の行使を、いかなる国の領土保全または政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。

前文の書き出し 「われら連合国の人民は、われらの一生の内に二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、…」

第2次大戦後、我々日本人があの焼け跡に呆然と立ちつくした時の思いと、まったく同じ発想による文章である。
フィリピン攻防戦で惨敗と勝利を経験し、戦争の実像を網膜に焼き付けたマッカーサーの思いも、似たところがあったのではないだろうか?
2月4日、ホイットニー民政局長が訓示の中で、「国連憲章の諸原則を念頭に置け」とわざわざ注意したのも、この戦争放棄の条項にかけるマッカーサーの想いを強調したかったのだろう。



ここまでで今回の投稿を終わりたいところなのだが、どうしてもふれておきたいことがある。

憲法9条の発案者は幣原喜重郎?

「人類の知恵の積み重ね」としてマッカーサーノート第2項があり、それが現在の憲法9条になったと考えれば、憲法9条の発案者はマッカーサーということになる。
この点では憲法押しつけ論も理解できないこともない。
鈴木安蔵ら憲法研究会の「憲法草案要綱」では軍事のことにはまったくふれていないことだし。

しかし、この9条も発案者は幣原喜重郎であり、憲法押しつけ論はここでも当たらないという議論がある。

幣原喜重郎
幣原喜重郎は、1945年10月9日から1946年5月22日まで総理大臣だった。
ちょうど憲法改正問題のまっただ中で首相を務めた人だ。
戦前戦中はずっと外交畑を歩いてきて、外務大臣も4回務めている。

戦後、東久邇内閣が総辞職したとき、政界の第一線からすでに引退していた幣原は、天皇じきじきの説得などもあって、総理大臣として復活した。

さて、この「第9条の発案者は幣原喜重郎」説については、水草修治という牧師さんが「日本国憲法の制定過程」という立派な論文(WEB上に掲載)のなかでかなりくわしく書かれている。
私のブログなどよりよほどおもしろく勉強になる。

私も水草論文を元にこの件について以下書き進める。

1946年1月24日、幣原首相はペニシリンのお礼としてマッカーサーを訪ね、約2時間半会談している。
この会談の内容について、マッカーサーは1951年5月5日米国上院軍事・外交委員会聴聞会で次のような証言をした。

マッカーサーの証言(1951年5月5日 米国上院軍事・外交委員会聴聞会)

日本の首相幣原氏が私の所にやって来て、言ったのです。
「私は長い間熟慮して、この問題の唯一の解決は、戦争をなくすことだという確信に至りました」と彼は言いました。
「私は非常にためらいながら、軍人であるあなたのもとにこの問題の相談にきました。
なぜならあなたは私の提案を受け入れないだろうと思っているからです。
しかし、私は今起草している憲法の中に、そういう条項を入れる努力をしたいのです」と。

それで私は思わず立ち上がり、この老人の両手を握って、それは取られ得る最高に建設的な考え方の一つだと思う、と言いました。
世界があなたをあざ笑うことは十分にありうることです。
ご存知のように、今は栄光をさげすむ時代、皮肉な時代なので、彼らはその考えを受け入れようとはしないでしょう。
その考えはあざけりの的となることでしょう。
その考えを押し通すにはたいへんな道徳的スタミナを要することでしょう。
そして最終的には彼らは現状を守ることはできないでしょう。
こうして私は彼を励まし、日本人はこの条項を憲法に書き入れたのです。
そしてその憲法の中に何か一つでも日本の民衆の一般的な感情に訴える条項があったとすれば、それはこの条項でした。

マッカーサーは「マッカーサー大戦回顧録」でもこの件に触れていて、内容は一致している 。

この会談については、日本側からの証言もある。
幣原首相の友人枢密顧問官大平駒槌(おおだいらこまつち)は次のように回想している。

幣原首相の友人枢密顧問官大平駒槌の回想(大平の娘がメモしたもの)

(幣原は)世界中が戦力を持たないという理想論を始め戦争を世界中がしなくなる様になるには戦争を放棄するという事以外にないと考えると話し出したところがマッカーサーが急に立ち上がつて両手で手を握り涙を目にいつぱいためてその通りだと言い出したので幣原は一寸びつくりしたという。・・・
マッカーサーは出来る限り日本の為になる様にと考えているらしいが本国政府の一部、GHQの一部、極東委員会では非常に不利な議論が出ている。
殊にソ聯、オランダ、オーストラリヤ等は殊の外天皇と言うものをおそれていた。・・・
だから天皇制を廃止する事は勿論天皇を戦犯にすべきだと強固に主張し始めたのだ。
この事についてマッカーサーは非常に困つたらしい。
そこで出来る限り早く幣原の理想である戦争放棄を世界に声明し日本国民はもう戦争をしないと言う決心を示して外国の信用を得、天皇をシンボルとする事を憲法に明記すれば列国もとやかく言わずに天皇制へふみ切れるだろうと考えたらしい。・・・
これ以外に天皇制をつづけてゆける方法はないのではないかと言う事に二人の意見が一致したのでこの草案を通す事に幣原も腹をきめたのだそうだ。

天皇制との関係は後に投稿する予定。

幣原の側近であった大平の回想(大平メモとよばれている)はけっこうな量があって、しかもとても興味深く、ぜひ全文一読してもらいたいが、その中で特に目を引かれた部分を引用する。

大平駒槌の回想(大平の娘のメモ)*マッカーサーとの会談で幣原が述べたこと

日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。
日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか。
原子爆弾はやがて他国にも波及するだろう。
次の戦争は想像に絶する。
世界は亡びるかも知れない。
世界が亡びればアメリカも亡びる。
問題は今やアメリカでもロシアでも日本でもない。
問題は世界である。
いかにして世界の運命を切り拓くかである。
日本がアメリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くかである。
日本がアメリカと全く同じものになったらだれが世界の運命を切り拓くか

好むと好まざるにかかわらず、世界は一つの世界に向って進む外はない。
来るべき戦争の終着駅は破滅的悲劇でしかないからである。
その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現を期待する以外にないであろう。
同時にそのような戦争放棄国の出現もまた空想に近いが、幸か不幸か、日本は今その役割を果たしうる位置にある。
歴史の偶然は日本に世界史的任務を受けもつ機会を与えたのである。
貴下さえ賛成するなら、現段階における日本の戦争放棄は対外的にも対内的にも承認される可能性がある。
歴史の偶然を今こそ利用する秋である。
そして日本をして自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う唯一つの道ではないか

この憲法9条の幣原喜重郎発案説については賛否両論が激しくて、私などにはどちらが本当なのか判断できない。
特に小関彰一大先生が否定しておられるので、そうかなとも思ったりする。

しかし、水草修一はこの小関の否定論も論文の中でとりあげて、小関のことを「当時の状況に対する想像力が欠けている」と批判している。

今回も引用だらけの投稿になったが、最後である。

総選挙投票日を間近にひかえた今、水草がこの論文の最後に「結び」として書いたものが実に示唆に富んでいてグッドタイミングなので紹介する。

水草論文の「結び」

日本は憲法9条の戦争放棄条項のゆえにこそ、米国の戦争に巻き込まれ、米国の奴隷とされることなく歩むことができた。
実際、憲法9条のなかった韓国はベトナム戦争に延べ35万人の兵士を出させられ、4万人のベトナム人を殺し、5000人の戦死者を出した。
もし9条がなければ、日本の青年たちもまた、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、その他で多くの血を流させられたであろう。

以上のようなわけで、いわゆる自主憲法制定こそ対米追従の奴隷の道であり、日本国憲法こそ自主の道なのである。
自民党憲法改正草案が実現され9条が改変されていくならば、日本はますます奴隷化へと進むことになってしまう。

現行の日本国憲法は国民主権という原理に立っている。
国民がその主権を具体的に行使するのは、参政権を行使することによってである。
自ら国会議員・地方自治体の議員になる道が参政権のひとつにはあるが、ほとんどの人が参政権を行使するのは選挙を通してであろう。
では、われわれキリスト者はどのようなことを基準として、投票行動をすべきなのだろうか。

われわれは、ローマ書13章から、神様が政治家に託している務めは社会秩序の維持(剣の権能)と富の再分配によって貧富の格差をほどほどに是正することであると学んだ。
また黙示録13章から、悪魔が政権担当者に影響を与えるとき、侵略戦争に走り、偽預言者をもちいて国家崇拝を強要し、神の民を迫害するということを学びんだ。

したがって、選択基準は、次の4点である。

1.社会秩序を公正に維持し、
2.貧富の格差をほどほどに是正し、
3.侵略戦争に走らず、
4.国家崇拝を求めるような思想統制をしない。

もし、この基準に照らして該当する政党や人物がないばあい、時代の動向を観察して、1~4が社会に実現するような方向を意図して選択をすることである。



◆ マメグンバイナズナ(アブラナ科マメグンバイナズナ属)◆
マメグンバイナズナ 2014.2.21撮影
石垣から一株だけたくましく成長していた。はじめグンバイナズナだと思っていたが、実の形が丸っこいことからマメグンバイナズナだと同定した。それにしても2月というのがちょっと不思議。実は昨年できたもので、花は暖かいので早めに咲いたのだろうか。

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