2017年9月22日金曜日

日本国憲法の誕生 ⑫民政局の活動<1> 憲法前文とハッシー

ケーディスの回想によると、ハッシーは前文をやらせてほしいと自分から申し出たことになっている(鈴木昭典「密室の九日間」)。

草案作成のための組織図を見ると、1人で担当した分野はリゾーの「財政に関する小委員会」とハッシーの「前文」のみだ。

2013年9月3日の「未来ビジョン」(リンクはユーチューブ)という放送で、安倍晋三が、

「日本は戦争に負けましたから、敗戦国は詫び状文を書けと。しかも自分で書いたんじゃないんですよ。これはアメリカの25人のうちの1人がですね、たった1人の人物がこれを書いたんですよ」

と息巻いている「1人」とはハッシーのことだ。

民政局草案のこの前文は、この後の日本政府とのやりとり、国会での論議を通じてまったくといっていいほど修正されずに成立している。

日本国憲法前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。
われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


何度読んでもすばらしく格調高い文章だ。
声に出して読むと涙が出そうなくらい。

週刊金曜日に書いてあったことだが、雨宮処凜は右翼少女をやっていた時代に、この憲法前文を読んでいっぺんに左翼になったと本人が言っている。

松本ヒロがこの憲法前文をテーマにひとり舞台をしている。
私はまだ見ていないのだが、あの井上ひさしが感動して楽屋に押しかけてきたとか。

「きたがわてつ」というちょっとマイナーな歌手が「日本国憲法前文」という名のついた歌を歌っている。
なかなかいい。

しかし安倍に言わせると「インチキ」「みっともない」「いじましい」。
そういえば石原慎太郎も「醜い文章」と言っていた。
思わず醜いのはおまえだろうと叫びたくなる。

「密室の九日間」ではケーディスへのインタビューを中心に、この前文とハッシーのことが次のように書かれている。

――ここから転載(「密室の九日間」から)

もう一つ、いつ草案が書かれたかわからないのは、ハッシー中佐がひとりで担当したとされる憲法前文である。
日本国憲法が日本人の手で書かれていないと極東委員会がのちに見破ったのも、私達が今もって自国の憲法にバタ臭さを感じるのも、この前文に負うところが大きい。

セオドア・マクネリー教授(注:太陽 日本国憲法の研究者)によると、

「前文の出典を追及すると、書き出しのスタイルはアメリカ合衆国憲法、典拠としたものは、リンカーンのゲッティスバーグの演説、テヘラン会議宣言、大西洋憲章、アメリカ独立宣言、国連憲章などがあげられます。

ハッシーもラウエルも文章には一家言持っていて、参謀役として司令官の演説の草稿などは書き慣れていました。
しかし、いくつかの歴史的名文を参考にして、いかに世界に訴える文章を綴るかに心血を注いだのだと思いますよ。憲法を執筆するなんていうチャンスは、あだやおろそかに巡ってくるものではありませんから……」

ということだ。

ハッシー中佐は、ちょっと変わった性格の人物で、あまり周囲の人と馬が合わなかったようだ。
これはマクネリー教授のハッシー評だが、前文の表現に独特の雰囲気が漂うのは、彼の性格の反映かもしれない。

しかし、前文を通して一貫した思想は、誰の発想だったのか? その根本のところをケーディス氏にぶつけてみた。

「百パーセント、ハッシーです。マッカーサーでもホイットニーでもありません。
彼は、この前文に、エネルギーのすべてをかけていましたから……。
しかも彼は文章にはある種の自信を持っていて、他人に直されるのを非常に嫌いました。

私は、世界原則とかモラルとか高尚なことを言っても、現実的ではないと思っていましたから、彼の考えには反対でした。
<百年先にはあり得るかもしれんが>といった論争をしました。

結局は、ホイットニー将軍が<あってもよいではないか>といったので、前文は残すことになりました。
彼は准将で、私は大佐でしたから……。
階級は一つしか違わなくても、軍において、将軍と佐官では大きな違いがありますからね(笑)。

そんな経緯があったわけですから、私個人としては、前文は重要なものと考えていませんでした。
日本政府にわたってからカットされると思っていたほどです。
でも、日本政府から送ってきた草案では、一文字も修正されていませんでした」(注:太陽 最初は全文削除されていた)

しかし憲法前文のような重要な内容が、とてもひとりの中佐の文学性で成り立つわけはない。
その証拠に、ホイットニーが書いたとされるミズーリ号での降伏調印式のマッカーサー元帥の演説に、ハッシーが書いた憲法前文と同じ文脈が見える。
ホイットニーが情熱をかけて推進した憲法草案のその前文に、彼の影を見ないわけにはいかない。

「しかし、文章の長いのには閉口しましたし、他からの引用が多いので、GHQの誰かが関係しているのがわかってしまうことを心配しました」(ケーディス氏)

実際に、3月6日に憲法改正要綱が日本政府案として発表された時、各新聞は「予期せざるほど民主的」(毎日)とか、「連合軍最高司令部と深い諒解が存在する点に於いて意味がある」(朝日)というふうに、その裏の事情を見破っている。

さまざまに論議を呼ぶ前文だが、当時スタッフの中で日本語から英語に、英語から日本語にと翻訳の作業に情熱を傾けたジョセフ・ゴードン氏は、英語としては当時の国際環境や日本の立場を見事に表現した名文だという。

その前文も何度か書き直されている。
最初は、戦争放棄に関する文章が、前文の後段にある世界への誓いを述べた部分の中に入っていた。

「前文については、ハッシーは自分から志願した関係もあって、熱心に取り組んでいました。
ラウエルも少しは手伝っていたかも知れません。
しかし、私が修正した戦争放棄の条項が、いつ前文に取り入れられたかはわかりません。
運営委員会全員が、混然として作業をしていました。
私の書いた戦争放棄の条項も、誰もが見ることができましたから……。

また、ホイットニー将軍は、戦争放棄の条項を第一条にしたかったようですが、早い段階で、第一条は天皇条項と決まっていました。

マッカーサー・ノートの原型から、<日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる>の部分をカットした時、その精神を前文に入れることを考えました。
そして、<われらは、われらの安全と生存を、平和を愛する世界の諸国民の公正と信義に委ねようと決意した>という文言で、日本の立場をはっきりさせました」

このあたりの判断を、今も間違っていたとは思わないと、ケーディス氏は明快に答える。
戦争放棄については、信念を持って処理したという自信が伝わってくるような話しぶりである。

転載ここまで――

この「密室の九日間」によると、憲法前文はハッシーひとりが私案を書き、それを運営委員会で論議して草案に仕上げたことになる。

ベアテ・シロタ・ゴードンの「1945年のクリスマス」という本でも、このハッシーが書いた前文をめぐって運営委員会で論議があったことを具体的に書いている。

ところがである。

「日本国憲法の誕生」を2009年に上梓した(今年4月にその増補改訂版を出版)小関彰一大先生は、この本の中で、わざわざ「前文の起草者は誰か」という小さな見出しまで付けてハッシー前文執筆論に疑問を呈している。

――ここから転載(小関彰一「日本国憲法の誕生 増補改訂版」から)

ところで、日本国憲法の前文は誰が起草したのだろうか。
マッカーサーではない。
先の「三原則」を見ても、幣原との会話でも、「戦争の放棄」とは言っているが、「平和」には決して触れていないのである。
それはある意味では当然なことだろう。
「軍人に生まれるために生を受けたような軍人」のマッカーサーが、「平和」を口にするほど、「恥知らず」ではないであろう。
その点、今の軍人や政治家とは違うのである。

軍国主義日本に勝利したアメリカ人にとって「米国軍人」は、かつての日本の軍人のように、「栄えある職業」であったのである。
マッカーサーの時代のアメリカは、陸軍省のことを Department of War(戦争省)と言っていたほどである(その後、1950年代初めから Department of Army と変わった)。
まさに「戦争」とはすばらしい、勇ましいものであったのである。

しかも、9条の規定は、たしかに先の述べたごとく日本側の努力によって「平和」が追加されたが、本来マッカーサーの頭の中には「戦争の放棄と軍備不保持」しかなかったのである。
それに比して、前文の平和主義の段落には、新しい憲法への決意、平和国家を創ろうとする理想、改革者としての情熱が伝わってくるではないか。

そう話せば、誰しも「その名は?」と聞きたくなるに違いない。
残されている文献からは、アルフレッド・ハッシーの名前が挙がっている。
しかし、ハッシーは、宗教的な教育(キリスト教)を受けて成長したが、弁護士、裁判官の経歴があるのみの法律家である。
ハーヴァード大学で政治学を学んだあと、「米国建国の父」の一人であるトーマス・ジェファーソンが創立したヴァージニア大学ロースクールを優等の成績で卒業し、弁護士資格をもつ優秀な法律家としての経歴を持っている。

しかし、前文の成立過程の詳細な研究がほとんどないなかで英米法学者の田中英夫の研究によれば、どうも実際はそれほど単純ではなかったようだ。
田中によれば「前文と戦争放棄の条文の起草が、運営委員会のメンバーおよびホイットニー民政局長の間で進められたことは確実のようである」という。

「運営委員会」とは、起草にあたった数名の委員から成る小委員会(たとえば、天皇に関する委員会というように)を統括する委員会である。
同委員会は民政局次長のケーディスを中心に、ハッシーとマイロ・E・ラウエルのいずれも弁護士出身の3人の法律家がメンバーに入っていた。

つまり、「前文と戦争放棄の条文の起草」は、「運営委員のメンバーおよびホイットニー民政局長」であったということは、9条の戦争放棄条項はすでにほぼマッカーサーの案文そのものであったからこのメンバーが起草することはさして不可能ではなかったと考えられるが、占領初期で嵐のような改革が進められた多忙極まりない時期に短時間で民政局の幹部ばかりで、先の平和主義の部分だけでも、それは前文の3分の1ぐらいになるが、こんな長文の文案を起草することができたとはとても思えないのである。

しかも、前文の案文は、きわめて哲学的、理念的、思想的かつ宗教的ですらある。
およそ、戦争の法規の9条とは対照的だ。
もう一度、先に掲げた部分を再読していただきたい。
「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」とか、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」するとか、あるいは「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」などといった文章を、多忙で同時にいくつかの他の政策に携わっていた軍人や法律家が起草したとは、著者にはとても想像できないのである。

まず、確認しておきたいことは、9条はGHQが起草した段階では「平和」はまったく言及されていなかったこと、それに比べて前文はきわめて「平和」を思想的かつ宗教理念――キリスト教思想と言い換えてもいいのだが――に基づいているということである。

つまり、民政局の幹部が自ら起草したのではなく、キリスト者、あるいは平和主義者が素案を起草したと考えざるを得ないのである。著者は、日本のフレンズ(クエーカー教徒)の人々が関わったのではないかと推測している。

というのは、GHQは、すでに前文起草の直前の1946年1月1日、つまり天皇が「人間宣言」を読み上げた日、日本の文化をよく知る少数のアメリカ人が天皇の宣言の素案の作成に携わり、天皇自身も含めて日本側案文の起草にあたっていたのである。
天皇が神でないことをマッカーサーや日本政府が国民に直接命令を発するよりも、素案の骨格をアメリカ人に作成させ、天皇の見解を加味して、「皇室の大事」を詔書の形で天皇自身が国民に直接語りかけることの方が説得的であると考えたのである。
結果的に天皇の「人間宣言」は諸外国は言うまでもなく、日本国民にも好評であった。

こうした経緯がGHQ案の前文の作成に生かされたと推測しうるのである。
前文の起草課程はいまだ解明されていないが、案文作成者を特定することは、著者にとって当面の宿題となっている。

転載ここまで――

小関先生は当然「密室の九日間」や「1945年のクリスマス」は読んでいるだろう。
私などはそれらの文献から当然のごとく前文の草案はハッシーが書いたと疑わないのだが、小関先生はそうではないという。
このへんが学者の学者たるゆえんなのかもしれない。

どちらにしても、小関だって、憲法前文のすごさは認めているのだ。
こんなすごいものがハッシーひとりによってあの短時間のなかで書かれたとは信じがたいというのが小関の言い分だ。

安倍や石原のとらえ方とちがいすぎる。
過去のさまざまな文章のコピペに過ぎないという人さえいる。

コピペに過ぎないとしても、長年にわたる人類の人権と民主主義追求の到達点であり、2度の悲惨極まる大戦から得られた教訓なのだ。

70年がたち、この到達点を人類はさらにどこまで発展させることができたのだろうか。
この前文は古くなったのだろうか。

私は今でもこの前文の精神は生きているし、人類の未来を照らしていると思う。

今回はいつもにまして転載ばかりの投稿になってしまった。



◆ オナガガモ(カモ目カモ科マガモ属)◆
オナガガモ 2014.2.11撮影
後ろの4羽はメスのコガモだと思っていたが、先頭の1羽ははっきりとオナガガモだし、そうすると、後ろの4羽はメスのオナガガモというのが正しいという結論になった。鳥は難しい。

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